かにの季節に、城崎温泉の旅館が空いていることはここしばらくなかったと思う。行きたいなと思いながらも、宿をチェックすると満室で諦めるというのが恒例行事となっていた。 ところが、このご時世である。多くの人が外出を自粛する中、もしかするとと思い宿を確認したところ、空きがある。もう今回を逃すと一生行くことはない気がしたので、予約をする。同じ兵庫県内だから、と言い訳しながら。
三ノ宮から2時間半みっちり電車に揺られ、子ども三人はそれぞれ退屈しのぎにおやつを食べたり本を読んだり、何度もトイレに行ったりしていた。大人でも2時間半は長い。外の景色を見るには、特急は早すぎる。電車に飽き飽きしたころに着いたそこは雪景色、などはなく、人気の少ない温泉街が広がっていた。 私が城崎温泉に行ったのは大学生なりたての頃なのでもう15年以上前になる。高校の同級生と、どこかにみんなで行こうということになりなぜか城崎温泉に行った。5人か10人だったかしかも誰と言ったのかも忘れたが、その時予約したり連絡したりするのを全部私がやってとても大変だったことを覚えている。当時はまだインターネットもここまで充実していなかった。ガラケーだった。
川沿いにお土産や飲食店が並び、一昔前の趣を残している通りを歩き、宿まで行く。途中寄り道などするので、それはそれは時間がかかる。でも、それでいい。
ようやく着いた宿に、皆テンションが上がる。長男は歴史好きなので、昔風のことが大好き。さっそく浴衣に着替え、下駄を履きたがる。それはそれは丁寧なおもてなしを受け、普段慣れていないのでなんだか恥ずかしい。外湯巡りは2箇所巡るだけで精一杯。次男は泣くので、男組と女組に別れて次男と時間を潰すため散歩をする。
雪がない、桜もまだまだ気配のない季節なのが残念だったが、暖かったので散歩にはうってつけだった。ゆっくりとベンチに座ってお話ししたり、お土産屋さんでうろちょろしたり。ひとけがほぼなかったことも幸いし、ただただゆったり。広いお風呂、電気やガスで沸かしたのとは何かが違うお湯に身体を沈める瞬間は、至福のときであった。
夕食は、かに。私はかにがあまり好きではない。夫は大好物である。量は少なめにしたが、豪華すぎて食べきれないぐらい。もっと少ないコースはないのかと思わず確認したが、これが一番少ないコースです、と言われてしまう。この、量がたっぷりあり、品数も多く、よそおっていただける、後片付けもやってもらえるというのは、明らかに不相応で、身の丈にあっていない。突然不安になる。とにかく落ち着かない。こんなに色んなものを一気に食べると体に異変が生じそう。そもそも勿体ない。3日に渡って食べる量である。もう一生かにを食べないであろう。(購入したお弁当や惣菜に入っていたら別だが)かにには、海でひっそりと暮らしてもらいたい。(おんなじ気持ちをうなぎにも感じることがある)
環境があまりにも違うと恐ろしくなる。それが、旅の醍醐味でもある。しかし、普段自分が大切にしているポリシーと全然違う価値観で回っているところに身を委ねる恐怖感。幸せが消費されていってる気分。贅沢よりも、地に足をつけたようなことや、身体を動かすことのほうが好きだと改めて自分を見つめ直す。
そうは言ってもお料理は本当に美味しくて、たくさんいただいた。ゆっくりできて、とっても素敵な旅館だった。木造建築が好きなので、隅々まで堪能させてもらった。自分の遺伝子に残るのであろう日本文化を懐かしいと思う気持ちが醸成されたよう。
そんな城崎温泉での充実したひとときよりも、あろうことか次の日に訪れた城崎マリンワールドのセイウチの大きさに、城崎温泉の寛ぎや感動を大きく上回る衝撃を受ける。なんて大きな生き物。しかも人間と共存している。不思議。実在しているだなんて。海にはこんな生き物たちが、人間たちの知らない世界を作っている。海のすぐそばにある、広いスペースに建てられた水族館には、自然とすぐ隣にある安心感が、感じられた。水族館の比較材料が機会が少ない私の意見は参考にならないだろうが、美ら海水族館に並んで、好きな水族館入りした。
そして、また2時間半電車に乗る。うとうとしながら揺られ街に帰り、それほど都会ではないはずの神戸に、人の多さと人が多いからこそ集まる物資やサービスの恩恵をしみじみと感じながら、日常に戻った。
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これから改めて、志賀直哉の「城の崎にて」を読もうと思う。生と死を考えるそれはちょっと重たいが短く読みやすい。
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