何を美しいとするのかは、非常に主観的である。
アートの存在意味も、ただアートに没頭するためだけのもので、それ以上に意味があればそれは欲望とセットの商業的なものになってしまう。「欲望」と「好き」は別物で、ただ好きであることは快楽と結びついている。好き≠欲しい ではないことがポイント。
好き、に没頭できれば、人は自分の心の内面に向かうことができる。おそらく、ふだんとは違う神経回路が動いている。人が人らしいのは、この「好き」があるからではないだろうか、と私は想像している。
そして、好きは、脳にコントロールされがちなことも忘れてはいけない。
アートギャラリーに飾られていると言われた絵画と、捨てられてあったと言われた絵画では、脳が評価を無意識に下して、好きを変えてしまうことがあるように。
お金を稼いでいてかっこいいから好き、というように。
何もしない時間、意識がボォっとした時間の方が、自分の好きが明確で、好きに没頭できる。
静かで穏やかな時間、寝起きの微睡や夕日が沈むのを眺める時間を、大切にしたい。
飽きてきたなと思う頃に新しいアイデアが浮かび行動できるのは、こういうことなんだろうと思っている。
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美は、時代によって変貌する。それは美しいとされるものが多数決で決められているから。本来、美はみんなが美しいと思うかどうかは関係なく、美しいと思う心=好きという気持ち なのではないだろうか。
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私はお寺や神社、日本の和風木造の伝統建築や枯山水のような禅がベースのお庭なども大好きで、ただただ美しいなと思うものが日常にもたくさんある。
先日、ふだんあまり触れ合うことのないアール・ヌーボー時代の美術を仕事で調べる機会があった。見れば見るほど、うっとり。華美で優雅な装飾。宗教性のあるもの、風刺画的なもの、自然界の美しさを閉じ込めたもの。美しい。好き。
大自然を美しいと感じ、大自然からインスパイアされたアートが好きという気持ちは、きっと変わらないだろうな。
そして、簡単につくれるもの、想いのこもっていないものは、美しいと感じにくいのも、変わらないだろうな。
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