会社勤めもいよいよ残り1ヶ月。ここ最近、仕事量が多く時短でできる範囲を超えており、家に仕事を持ち帰る状況。よって、有休消化は叶わず、馬車馬のように働くしかない現状がもどかしいのが本音ではあるけれど、やってて楽しいことや、得るものがある、しかも残り1か月という思いで、毎日走り回っています。そもそも編集という仕事は他の会社ではもっと忙しいものなのだろうし。
と割り切りつつ、やめるときぐらい有休消化をさせてくれたらいいのに、有休消化がダメな会社と、初めから知っておきたかった…!と思う往生際の悪さ。先に言う会社なんてないし、まぁしゃーないわな。
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来年からフリーで活動するにあたって、この頃よく考えるのが、編集という仕事について。
出版社で働いたこともない、大きな広告を扱ったこともない、それでも、編集と言っていいのかと揺れていた。編集という仕事は、フラットな視点で企画し自分自身は何者でもないけれどチームを作って作品を作りあげることだ、と本質にたちかえり、規模の大小や経験の有無ではなくて、やりたいことはそこだと確信できたので、編集と堂々と言おうと思う。
本は売れない、情報は氾濫している、コンテンツは無数にある世の中。ここ100年ぐらいの出来事のはずなのに、そうではなかった頃のことを想像するのですら難しい。とりあえず、売れるものを作るのは、他の人に任せて、純粋にやりたいこと、おもしろそうだと感じることをしたいと思っている。で、それを人に届ける方法までも設計して動きたい。
今一つ考えているのは、自分を見つめ直すもの、家族を見つめ直すものとして、一定数の人が、自分史に興味を持っているのでは、と感じ、興味があるので、一個人の生きてきた軌跡を紡ぐような仕事をすること。
まずは自分の父親から、話を聞いて纏めるということをして試したい。自分の親の本が、本棚にあるのって、素敵じゃない?おばあちゃんおじいちゃんと増えていってもいいし。その時代が、わかるし。なんて、まだ自己満足のレベル。
他にも興味のある分野、農業や林業、子ども支援についても動いてみたい。まだ現場を何も知らなさすぎるから。
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思えば今年は、三度目の育休明けが4月から7月に伸び、まだ5か月しか働いていない。でも、それまでも生きていた。一歳にも満たないふわふわの乳児と、3歳5歳と家に引きこもる生活。
いまではもう、新型コロナウイルスだから特別に怖がる必要はないと知ったけれど、恐ろしい感染症だとしたら、人類は淘汰されようとしてるのかなとぼんやり考えたり、お葬式は本人はいらなくても、残された人の気持ちの整理のためにあった方がいいのかな、でもコロナだとできないみたいだから、お葬式のあり方を変えるべきかなと思ったり、そもそも流通が止まったら病気云々の前に餓死するな、と思考がぐちゃぐちゃだった。死の方ばかり見ていたのかもしれない。生と死は裏表だから、死を見ることは自然なことでむしろもっと直視するべきだと今も思っているけど。
そのころは授乳中でホルモンバランスが、普通ではない時期だったから、センシティブになったり気持ちが内向きになりがちだったことを覚えている。モヤがかかってる感じ。
でもこうやって振り返ると、突然のコロナ禍に、ありがとうが増えて、幸せを感じることが増えた一年だったなぁと、やっぱり感謝しかない。
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