私は飽き性である。興味があちこちに移る。とはいえ根幹は変わらないし、好きなことも私なりに一貫性があるし、一応ずっとカープファンだし建築もずっと好きだし編集や書く仕事も好き。でも、深く深く一つのことを突き詰めてはいけない。
どこかで、人が生きていくことは面積であると。広く浅くでも、狭く深くでも、面積(体積の方がいいのか?)は大きくなる。それでいいって。どうやっても人それぞれ大きさも形も違ってくる。その方が自然。堂々と、飽き性だと言っていい。(良いのか?)
しかし、小2の娘についてちょっと頭を悩ませている。
習い事が続かないのである。スイミングは友達より先に進んで嫌になった。年中の頃のことである。そのため、泳げないままやめた。バレエは先生が変わって嫌になった。これも年中の頃。残念だが仕方ない。その後習い事はしたくない、と何もせずにいたのだが、小2の夏に公文を始めた。算数と国語である。これは兄がやるからついでにやったら、と勧めたのである。彼女が自分のペースでできると喜んでいたのは初めだけ。毎日やらないといけないことが苦痛で仕方がない。そもそも学校の宿題すらままならない。公文のプリントを毎日やるのも、やらずに教室にいくのも嫌。よって、休みたい。いやいやそれでは習っている意味がない。宥めたり褒めたり、先生の力添えをもらったりしたが、半年以上経っても毎日宿題をやる癖はつかず、嫌で嫌で仕方がないまま。もう辞めると泣き叫ぶ。限界だと(限界なのはこちらの方)辞める決断をした。残念。勉強の筋トレみたいなものなのに。
いま始めたら、ほとんどのことでプロになれるのでは?と思ってしまう先を生きてきた親心。子供は今が楽しければそれで良いという考え。そりゃ交わらない。歌舞伎役者の子供なら、嫌も何も継がせるためにやらせるしかない。私がプロの音楽家であったら、私の知見を伝えるしできるだけ音楽を教える。サッカー選手なら運動能力を期待してスポーツをさせてみるだろう。
だがしかし、特技もなく飽き性でフラフラしているため、教えられることは何もない。継がせるものもない。ちなみに資産もない。ああ、将来が不安だ、と思おうとして、大して不安に思っていないことにも気づいた。
中高生になって美容師を目指して美容院を開いてもいいし、飲食店をやってもいい。勉強に目覚めるかもしれないし、音楽にハマってミュージシャンになるかもしれない。保育士になりたいと言っていたから、保育士でもいい。絵を描くのが好きだからイラストレーターや画家でもいいし、フォトグラファーでもいい。何かしら、食べていける手段は見つけることができるだろう。困難を乗り越える胆力や体力があればなんとかなるだろう。愛されているという実感を与えることしか私がやれることはないのだと、達観し始めた。ある意味放任である。どんな大人になるのか、想像もつかない。めちゃくちゃ楽しみ。(レールが何もないからね)
習い事を何もやっていなくても、堂々としよう。(私の方が。何を怖がっているのだ。)
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