一時期、ミニマリストにハマっていた。
あの何にもない空間で生活する人をテレビで見たときの衝撃といったら。
真似したいと心酔することはなかったけれど、ちょっと色々持ちすぎかもなと思い、処分をしまくった。ミニマリストが出している本を買って、彼らがこうやって本という物質をたくさんの人に届けている矛盾をチラリと感じたりしつつ、それでもちょうどメルカリが伸びていくときで、不要になったものを誰かに使ってもらいやすかったことが処分に拍車をかけた。
もう自分はいらないブランドものの服や鞄、ブーツは売って、気に入ってはいないけれどなんとなくずっと取っていたものや使っていないもの、なんか嫌々使っているものなどは破棄していった。停滞していたモノを移動させる(譲る、売る、捨てる)だけで一気に環境が変わったような気がして、すっきりしては処分するものはないかとキョロキョロしていた。見て見ぬふりをしていた闇にあるモノ(何が入っているのか忘れていた段ボールとか思い出したくもない時代の卒業アルバムとか)を本当の闇?に葬ることができたときは(多分灰になったはず)過去を清算できた気がして、セイセイした。
きっと子どもが増え、モノだけではないいろんなしがらみや情報などが一気に自分に降り注いで、訳が分からなくなっていたのだと思う。小さい子どもと動きにくい服は相性が悪かったし、ロックな服もしっくりこなかったから処分したことに後悔はない。そのモノにまつわる嫌な記憶も一緒に処分できている気もする。
今もまだたくさんのモノが私を覆っているが、ひととおり手をつけたのでまあこのぐらいでいっか、という境地に達したため、今の自分の適量を時々考えて見直すぐらいのことにおさまっている。
(そのおかげもあってか去年の引っ越しは結構スムーズだった気がしている)
(ちなみに我が家には至ってふつうの量のモノがある)
さて、前置きが長くなったけれど、そんな私なので前から読んでみたいなと思う本があった。
文庫本になったら読もうと思っていたけれど、一向にならないので、Kindleで読むことにした。
「滅私」
著者:羽田圭介
あくまで私の感想だけど、おもしろいから読みなよとはおすすめしない。(おもしろくないと言っているわけではない、とても読みやすくて一気読みした)読み終わったときに、「無駄を削ぎ落としていくと、あとは死しか待っていない」「捨て続けると、人間として生きることまで捨ててしまいそうになる」という解が私の中では導かれた。
極端なところにいると生きにくい。
本の中で、ただ「捨てるだけ」で人生が変わるという、大した努力なしに変化が大きいことが、ミニマムな暮らしがヒットしたポイントっぽいことが出てきて、私のふにゃふにゃな心に刺をさした。そう、私は努力ができないのである。努力せずに変わりたいから誰か救ってくれないかなという他力本願的マインドが少なからずあったし、今もちょびっとある。救いの手があっても気がつかないようなタイプなのに。
だからミニマリストにハマったのかな。
捨てることにものすごくエネルギーがいる人もいるだろうから、私は「捨てるだけ」とは言いたくはないし、捨てることを大層なことのようにも言いたくない。もし溢れるほどのモノに埋もれているのなら、コツコツと捨てていって、処分することになるモノを手に入れた過去の自分と対峙する方がいいだろうな、という感じである。どうせまた、新しいものを入れるときは吟味したりしなかったりして、結局作り上げていく生活空間は自分を表している。そういう自分らしい空間に身を委ねるのは快適だと思うから、モノがあろうがなかろうがどっちでもいい。
(また訳がわからなくなってきている・・・!)
私利私欲をぜんぶ捨てたとしたら、それは死に限りなく近い気がするけれど、どうなんだろう。
ちゃんちゃん。
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引っ越すから今のうちに、と淡路島にプラッとドライブに行きまして、明石海峡公園で遊び、公園の目の前にあるアクアイグニス淡路島という施設でお風呂に入り、サイクリストのためのお店でハンバーガーを食べて帰りました。明石海峡公園は、大人は入場料がかかるけれど、大きい遊具があるのでちびっこも楽しいし、芝生も広いので大きい子どももボール遊びなどで楽しめる、良い公園でした。梅のお花や寒桜、ミモザなども咲いていていい香りに癒され、海を眺めて綺麗なあとぼうっとしました。もう、春なんだな。
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